グルジア出身(グルジア語名:მერაბ მერაბიშვილი)。
ザーフトラ陸軍大学を卒業し、機甲師団へ配属。中隊長、大隊長を歴任した後、WAP戦略局へ移った。局ではザーフトラ共和国軍のWAP配備計画と戦術立案を担い、当時まだ未熟であった軍のWAP運用能力を一気に押し上げ、戦術を体系付けた勲功者である。
2080年代半ばに自主退役。数か月後にハフマン島へ渡り、私兵団「砂漠の蜥蜴」を結成した。
渡島と組織結成の目的は諸説あるが、どれも論拠に乏しいため「不明」と表現されることが多い。唯一、ディアブルアビオニクスの依頼で砂漠戦特化型WAP(サンドヴァイパーか?)の開発に協力をしていたことが判明している。
砂漠の蜥蜴は、その名の通り砂漠地帯を中心に活動しておりゲリラ戦に長ける部隊であった。戦間期において、もっとも知られたWAP部隊のひとつで、O.C.U.軍のWAP教本にもその名が登場している。
詳細な活動内容はやはり明らかでないが、2089年8月に発生した、O.C.U.軍所属チャリオット隊との交戦については、同隊がその状況を詳しく報告している。
報告によると、救難信号を受けたチャリオット隊がロクスタ砂漠東部を偵察任務時、救難信号を発したと思われる擱座WAPを調査中に砂漠の蜥蜴に遭遇。擱座機と救難信号は救援部隊を誘き寄せるため、砂漠の蜥蜴が仕掛けた罠であったという。
不意を突かれ数的不利でもあったチャリオット隊は即座に救援要請を発し、これを受けたO.C.U.軍所属のKaren.Meureが増援として到着した。現場は混戦となるが、Meure機から命中弾を浴びたМерабは致命傷を負い、まもなく死亡した。
この報告を最後に砂漠の蜥蜴は確認されていない。