第2次ハフマン紛争開戦直後から末期まで存在した新兵育成を専門とした部隊。
紛争末期までに育成した新兵は一説には数百人になるといわれている。
本来、軍用のヴァンツァーは厳しい選抜試験と訓練搭乗を経て正式な搭乗資格を得るはずなのだが、第2次ハフマン紛争開戦時はO.C.U./U.S.N.両軍とも数による軍事的優位に立つために、ヴァンツァーの搭乗経験がほとんどない新兵も大量にハフマン島に着任させた。
そのため比較的統制が取れている自軍後方地区で、哨戒任務などを兼ねてベテラン兵が新兵を「ヴァンツァー乗り」として育成する光景が両軍で見られた。
これをO.C.U.軍側で紛争末期まで任務として続けていたのが「OCU陸軍教導団」である。
特徴としては多くのベテラン兵が普段の愛機を使って育成していた事に対し、同部隊ではほぼ新兵と同じ機体を用いていた。
これは機体性能にかかわらず操縦技術や部隊の運用によって十分な戦果を上げることができる事を新兵に感じて欲しかったからである。指導方針は基本に忠実に、アサルト・メカニック・ミサイラーのごく基本的行動を中心に指導が行われていた。
2063年E.C.ポーランド出生。第1次ハフマン紛争後に家族に連れられ、当時O.C.U.およびU.S.N.の緩衝地域であったフリーダム市に移住。
2081年歩兵としてO.C.U.陸軍入隊。
2083年ヴァンツァー搭乗資格を取得。
2086年本人の希望によりO.C.U./U.S.N.両軍主導による、ヴァンツァーパイロット育成を目的とした新型仮想現実プログラムの作成に参加。この頃より軍人として新兵を育成する任務に興味を持つようになる。なお、新型プログラム自体は同年起きたハフマン危機のためβテスト終了時をもって開発凍結となった。
2090年第2次ハフマン紛争開戦。同年よりOCU陸軍教導団としてO.C.U.統制区内にて新兵の育成を任務として行うようになる。
2091年紛争の停戦と同時にハフマン島着任の新兵も減ったため、教導団を解散し島を離れ後方勤務となった。晩年はO.C.U.日本で過ごしたといわれている。
教導団時代、紛争初期から末期まで、(本来ベテラン兵が行くべき)前線に出ることがほとんどなかった点について軍内の一部から指摘があったが、当人は「教導任務は前線で活躍すること以外でO.C.U.の勝利のために出来る事を考えた結果の行動だった」と述べている。