アフリカ紛争

概説

2034年、CAのクーデターやギニアナとWALFの対立が発端となりアフリカ全域に広がった紛争。2035年にWAエンコモ大統領とUNASジェバール議長の直接対話によって終結。

紛争勃発・長期化の原因ひとつにアフリカでの影響力獲得を狙ったE.C.、O.C.U.の介入が挙げられる。E.C.はUNASを、O.C.U.はSAUSを支援し、また各陣営の兵器メーカーの製品、特にWAWの絶好の試験場として紛争が利用されてもいた。さらにE.C.は資源国・拠点確保のためアフリカ地下人工湖計画を推進しUNASとの関係を深め、同時にUNASにOAC設立を促し、それを足掛かりとした主導権の獲得を目論んでいた。また、対テロ部隊としてグスタフ・ゼルマンや傭兵部隊を送り込み、アフリカ各地の情勢を悪化をさせてもいる。

ZAINGO、ギニアナの崩壊にIMACが多大な戦果を上げたことでWAが早期復活を果たし、エンコモ大統領のアフリカ主導政策が各国の支持を集め、UNASのジェバール議長と和平を合意に至った。また、OACの結束が強まったことなどにより、UNASにおけるE.C.影響力が低下したため、アフリカ紛争を「他国の干渉を排除した聖戦」とする見方が主流になっている。

アフリカに派遣されたゼルマンは、E.C.から与えられてた任務とは別に、闇市場で売りさばくために「黒シケイダ」と呼ばれる安価で高性能のWAWを施設の秘密工場で製造。地下人工湖計画の水路を利用して輸出するルートを構築していた。紛争の裏に動いていた大国とこのゼルマンの謀略は、SAUA情報部の調査によって明らかになったが、これにもIMACが大きく貢献している。

詳細

紛争前記

ZAINGOの勢力拡大に対しCA政府首脳は危機から国外へ脱出したため、残された若手や良識派の政府関係者が体制の立て直しに奮闘したが、対抗できるだけの戦力がないCA政府の防衛部隊は劣勢が続き、防衛線は後退の一途を辿った。その間、ZAINGO軍はギニアナからWAWなどの援助を受けて戦力を拡充し、北部地域の支配を終えるとコンゴ盆地へ侵攻。一時、アルウィミ川防衛線は主要都市キサンガニ西方60キロにまで後退した。

圧倒的な戦力差に打開策の見出せなかったCAは、SAUS(南部アフリカ共同体)に支援を要請。同年4月、事態を重く見たSAUS政府は、内部の親O.C.U.派の後押しにより?関係の深いO.C.U.に協力を打診。O.C.U.は各共同体政府への配慮から大規模な軍事介入を避け、急遽編成した戦闘用WAWからなる特殊部隊の史上初となる実戦投入を決定した。

O.C.U.軍編成によるWAW部隊IMAC(当時、第1小隊のみ)がキサンガニに迫るZAINGO軍の前線を突破。イティンビリ戦線を破り敵の主力部隊駐屯地へ向かう進軍路確保し、CA民兵軍による反撃の足がかりを作った。さらに同部隊は、ゲメナ付近の森林に駐屯するコンゴ盆地侵攻作戦の主力部隊ジャングルキャット(密林戦を得意とするためこう呼ばれる)を撃破。指揮系統を断たれたキサンガニ包囲網は、SAUSの兵器給与を受けたCA民兵軍による一斉反撃を受け、ヤホレンデへの撤退。ZAINGO軍は、CAの反抗作戦に対し、中継拠点ヤホレンデにWAWを含む戦力強化を試みたが、防衛線が整う前にIMAC(全2小隊)による速攻を受け、戦線はZAINGO重要拠点のボンゴ山地にあるニアンゴ山岳要塞にまで後退。続いてIMACは、バミア団が防衛にあたっていた同要塞を攻略したが、ザイアスはチャド湖東のトゥアルバTOURBA近く廃棄された化学プラントを利用した補給拠点に退避していたためZAINGO壊滅には至らなかった。

第3小隊が加わり中隊となったIMACは、シャリ川支流に展開する補給基地の防衛部隊(強化型WAW配備)を撃破。さらに、最終補給拠点のプラントをにおいて守備隊を撃破。施設に空爆も行い、ZAINGOを壊滅状態に追い込んだ。拠点跡からはギニアナから運びこまれたと思われる多数の軍用コンテナを含む兵器格納庫と、国境に向かって西方に伸びるトンネルが発見された。これにより、SAUSはギニアナがZAINGOへ武器供与など行っていたことを確認。これらの状況を総合し、ZAINGO軍の戦力となったバミア団とWAWなどの兵器は、CA国内に混乱を生じさせて、CAからWALFへの支援を停止させるため、シンセミアが送り込んだものであると判断。実際のところ、ザイアスはシンセミアらに利用されていたがために、多くの支援を得ることができていたが、シンセミアの真意に気がついてバミア団を捨て駒にして生存を図ろうとしたところ、シンセミアに殺害された思われる。

紛争中期

ギニアナに対し抵抗活動を続けるWALFへSAUSによる本格支援が開始され、サンガナビーチから上陸し進軍。直後、ルシアス・エンコモ、エイモス・イレオ、ユージン・ボルヒェルトらWALFの主要メンバーの乗ったホバータンクが、敵に捕獲されかかったところをIMACが救出に成功した。

その後、補給拠点の確保、ゲリラ掃討部隊の足止め、アブジャ攻勢の陽動を兼ね、エクスラボスの海岸線上に展開するギニアナのゲリラ掃討部隊を排除しつつ、IMACがレッキ新への進軍ルートを確保、港を制圧。SAUSによる陽動が奏功しWALFのアブジャ攻勢は成功。ギニアナの管理下にあった放送局を奪回。WALFへの協力を呼びかけると、ギニアナ各地の勢力が団結し西部で反政府軍団が形成され、イレオの指揮によるラゴス軍指令本部への包囲作戦が開始された。戦局の膠着を打開するためIMACが背後のヤバ地区へ進軍。ラゴス島の戦況が不利、と判断したギゼンガはラゴス本土のヤバ地区に退却。軍司令部は、ギゼンガに対して不満を持っていたギニアナ空軍の協力により攻略された。2034年9月、IMACとWALFはラゴス・ヤバ地区を包囲し制圧に成功。ギゼンガは逃亡したが、ギニアナ軍事政権は崩壊し、西アフリカはエンコモが大統領再選を果たしWAが復活。ギゼンガ体制への移行を許した前政府の問題点を改革。民衆の大きな支持を得た。

紛争後期

ギゼンガの消息に関する情報として、O.C.U.は、サハラ辺境においてギゼンガの勢力立て直し、またUNAS領での略奪の被害などの報告が確認されたと偽の情報をSAUSへ伝達。実際にはギゼンガはすでに死亡していたが、このギゼンガの行動は信憑性のある情報として共同体規模の問題として扱われ、UNASの圧力も加わりOAC決議により、ギゼンガ及びギニアナ残存部隊の追討作戦が計画され、その先鋒としてIMACのUNAS領への進軍命令が下った。SAUSやWAの部隊は偽装情報に騙されたまま、ギゼンガのいないUNAS領に侵攻し、UNASの拠点のひとつであるクサービを制圧。

UNASは正規軍を本格的に戦線に投入。ターギットでSAUS?の大規模部隊が最新型WAW(WAP)シケイダを配備したUNASのアトラス防衛部隊に撃破された。アトラス隊はE.C.軍編成による部隊で、E.C.はこの部隊の投入でSAUS侵攻を止めることにより、UNASでのE.C.の影響力を強めようと考えていたが、続いて進軍してきたIMACに撃破された。

この頃、E.C.の影響力は弱まり、UNAS内部ではE.C.寄りの方針に対し反発が高まってもいた。また、WAがOACの主導権を取りつつあり、政権の整ったCAがこれに賛同。EAもSAUSの侵攻に不信感を高め、同調しつつあった。E.C.支援のUNAS対WA・SAUS連合との全面戦争の危機は、2035年1月のWA大統領エンコモとUNAS統合議会議長ジェバールとの直接対話によって回避され、紛争は終結。

2034年4月、エンコモの呼びかけにより、諸外国により干渉されないアフリカ主導の再建運動が始まった。再建運動支持派の拡大で、SAUSの親O.C.U.派勢力は弱まり、既に協力体制にあった中部・東部・北部に南部が加わった。2035年5月、エンコモが共同国家宣言。

上掲の地図2点で記されたWAとの境界は、明確に示す資料がないので参考程度のものです。最終決戦地のティムガッド遺跡は世界遺産のひとつで、ゼルマンがデモンストレーションとして破壊したのはトラヤヌス帝の凱旋門。